Writer:メグ☆ママさん(公開日:2001年3月)
1989年の夏。渋谷・センタ-街を二分していた『渋谷RUDE BONEZ』と『宇田川警備隊』のケンカに巻き込まれた私は、見事にパンチを顔面 で受け止め救急車に運ばれた。気がつくとそこは病院で、誰かが母に謝罪している背中がボンヤリと見えた。その人が『宇田川警備隊(ウダケー)』のアタマ、ナガタ君だった。
「赤耳」という言葉が知名度を高めつつあった当時、ナガタ君はすでにタテ落ちしていた「赤耳」で「ビッグE」な501を古着のアロハに合わせて着こなしていた。野郎が香水をつけるなんて…と言われていた時代、ナガタ君からはシャネルの「エゴイスト」の匂いがした。要するに彼は俗に言う『チーマー』だった。しかし、私のイメージしていたのとは全く違っていたのだった。もっと野蛮で無礼なイメージがあったのに、ナガタ君はとても礼儀正しくきちんとしていたし、何十年も前に作られたGパンは、とても気持よさそうだった。
一ヶ月の入院の間のお見舞いに、ナガタ君が着てきた洋服を一言で表すなら「上品」だろう。確かに彼らは路上に座り込んでダベる若者のハシリだった。時に大声をあげ、大人達が顔をしかめてしまうような事もたくさんしていた。けれども彼らが好んで身に付けていたアイテム自体は、とてもシンプルで大人が喜ぶものばかりだった。コインローファー、ボタンダウンのシャツ(パステルカラーが主流)、誰でも持っている様なフツーのデニムにチノパンツ…。たまにアロハや古着のTシャツ等も加わるが、誰1人として「汚く」着こなしている者はいなかった。サッパリとした雰囲気が漂っていた。ナガタ君は「着こなしのポイントは、彼女の親にバッタリ会っても平気なカッコ」とよく言っていた。そして、「やんちゃな事やってるから、服はきちんとしておきたい」とも。
この言葉を裏付ける流行アイテムが、『紺ブレ』である。 Gジャンでもカーディガンでもダウンジャケットでもない、七五三や幼稚園を彷佛させるアイテム『紺ブレ』。だが彼らは迷いもせず、これに袖を通 したのだ。デニムに合わせたりインナーをTシャツにする事で、『ブレザー』から『紺ブレ』という新しいアイテムに仕立て直したのだ。そしてまるで鎧の様に、お揃いで着こなしていた。ウダケーはシングルの紺ブレ(おまけにボタンを特注して付け直させていた)で、某チームはダブルだった。自分達の好きな服に合い、世間からうるさく言われる服でもなく、やんちゃをごまかすのにもピッタリ…一石三鳥の服に出会ったのだ。
「やんちゃ」を紺ブレに隠し、チーマー達はどんどん増殖していった。シンクロして、本来の紺ブレとは違う位置の紺ブレが出現し始めていた。『なんちゃってチ-マ-』である。紺ブレにもデニムにもローファーにも思い入れが無いであろう彼らは、「やんちゃ」を隠す術すら無かったのである。
そしてチーマー達がやっと手にしたスタイルである『紺ブレ』は、いつの間にか流行アイテムとなった。『渋カジに見えない紺ブレの着こなし術』等の見出しがファッション誌に躍り、紺ブレは渋谷でなくても別 に構わないモノになってしまった。どこにでもある服を、誰とも同じにならない着こなしをしてきたチーマーが、センタ-街のエキストラに見えてしまう…そんな波が確かにやって来ていた。
その頃に某P誌というファッション誌が、『紺ブレ100人いるのかな?!』というグラビアをやるので、仕込み人員を集めてくれとナガタ君に頼みにきた。しかし仕込みはそんなに必要ではなかった。フツーに歩いてる人たちだけで、ほとんど100人集まってしまったのだ。そこに居たチーマーの誰もが、紺ブレの存在意味が変化した事を実感していた。
その時の事でとても印象に残っている事がある。撮影中のナガタ君は「あのコは○○の紺ブレ。こっちは××だな」と、紺ブレのブランド名を列挙していたのだ。それに気づいた『なんちゃって』が「そんなの覚えたって、何にもなんねーよ」と、ホザいた。ナガタ君は「覚えたんじゃなくって、覚えちゃったんだ。年季が違うからね」と、カラカラ笑った。そして笑いながら紺ブレを静かに脱いだ。「もう紺ブレはスタイルじゃなく、ただのファッションにしか見えないね」ウダケ-特注ボタンを指でいじりながら呟いた。彼らにとって洋服はあくまで「スタイル」だったのだと、あらためて思った瞬間だった。
「ウダケー解散するんで、最後のパーティでDJやってよ」そんな留守電が入っていたのが、1991年。ウダケーのメンバーが勝手に『○×支部』と名乗りクスリや援交を斡旋し、新聞に載ってしまったのが決定打になってしまった。渋谷には紺ブレを着ている人はいなかった。そして「やんちゃ」を紺ブレで隠す必要の無い、ギャルやイケメンが街を圧倒し始めていた。