Writer:三浦俊一さん(公開日:2001年1月)

1980年。私は高校生でした。あー、もう20年も前の話になるんですねぇ。このページ的には「テクノポップブーム」のあたりということになるのでしょうが、世間的にはブームって程大きなものではなかったです。

今でも変わらないですがジャニーズやら(注1)女性のアイドル歌手やらが主流で、それらに比較すると本当に小さなブームでした。YMOは武道館公演(注2)を成功させるまでになりましたが、他のバンドはライブハウス(注3)を埋める程度、時たま複数のバンドでホールコンサート、というような状況でした。小さいブームの割には世間の認知度はそこそこあったので(注4)「オレは最先端で多数に理解されない音楽を支持しててカッコいいんだ~ゼ~!!」(注5)というような選民意識的な満足感をアピール出来るというメリットは十分ありました。

注1:田原俊彦、野村義男、近藤真彦。いわゆるたのきんトリオの時代。泣ける。
注2:今で言うアリーナツアーくらいのステイタスがあった。
注3:ライブハウスの認知度も極めて少なく「すごく怖い場所」と思われていた。
注4:音楽がどうこうよりも、もみあげがないというそのとんちんかんな髪型のイメージで認知されていたことは否めない。
注5:似たような感覚としては、4~5年前のインターネットユーザ。ちなみにこのようなスタパ斎藤語を使う人はいなかったっていうか、当然スタパはまだ出現していない。

1983年3月、高校の卒業と同時にP-MODEL(注6)というバンドを手伝うことになりました。それ以前からP-MODELの事務所に出入りはしていて、[Pt]mask(注7)なんかを手伝わせてもらったりしていたこともあり、前任の田中さんが脱退されるというので、後任が決まるまでの間を手伝うということになったわけです。それからしばらくして加入。それから3年弱程の間に2枚のアルバムとカセットブックを1本、100本以上のライブに参加させて頂きました。実際はミュージシャンとして参加したというより、実習のみの専門学校って感じで、本当にいろいろ教わりました。そしてその在籍期間に日本の音楽シーンが移り変わっていくのを(注8)目の当たりに見ることが出来たのは幸せだったのかも知れません。

注6:電子楽器を駆使した音楽を20年以上も制作し続けるバンド。
注7:プラチナマスクと読む。無理心中、BOYS BOYSという元祖レディースバンドを率いていたKUMIさんのバンド。
注8:大げさに書いたけど、結局はメイジャーとアメイチュアの中間が出来たってこと。

入当時の状況としては、ニューウェイヴのブームが終わり、周辺のバンドの状況はどこも厳しいものがあったのではないかと思います。ですが、シーンの当事者達に悲壮感が漂うわけでもなく、逆に「ここからがスタートだ」というような士気を感じたのは、ロックミュージックそのものの認知度が上がってきていたという状況と、自主制作シーン(注9)の出現、それを一般 紙(なのかな?)である宝島が取り上げ始めたのも大きいと思います。

注9:今で言うインディーシーン。それ以前だとレコードを自主制作するのは演歌だけだった。

のようないくつかの状況が重なって、シーン自体に活気が出始めたのが84~5年あたりで、うだつの上がらないバンドマンにも「ライブハウスロッカーズ」とか、アングラなイメージだった自主制作という名称を「インディーズ」と改称みたり、今までよりイメージはいいけど、呼ばれる方はありがたいようなありがたくないような名称が付けられるようになりました。ただイメージはいい分動員はしやすくなり、オーディエンスの年齢層は下がり、サザンやユーミン的イメージからはじかれた方々がここぞとばかりに集約し始めました(注10)。

注10:自分も含めて、当時はそう思いたくなかった。協調性のなさを個性という言葉で言い訳してたような気がする…。

島はカセットブック(注11)という形態で、遠藤ミチロウ(注12)、P-MODEL、町田町蔵(注13)など、そのシーンの中でも盛り上がりを見せているアーティストの作品をリリースしていきました。それが発展してキャプテンレコードという、企業が母体になったインディーレーベル(注14)になり、良い面 も悪い面も含めてインディーズの中核をになっていくのです。同時期にラフィンノーズのチャーミーが主催するAAレコード、有頂天のケラ率いるナゴムレコードなど、個人主催のレーベルが売れないメジャーのレコードの売り上げを上回るようになり、音楽業界としても無視できない存在になっていくのです。

そして、そのムーブメントがピークを迎えようという頃、私は有頂天というバンドに移り、インディーバブルの中に身を置くこととなるのです。

注11:書籍の流通を使う為にカセットテープに無理矢理本を付けた商品。自主盤を扱うレコード店があまりに少数だった。
注12:伝説のパンクバンド「ザ・スターリン」のヴォーカリスト。今でも彼らと同じようにステージから豚の臓物なんか客席に向かってぶちまければ伝説になれると思う。要勇気。
注13:作家町田康と同一人物。当時誰がのちの芥川賞作家になると思っていただろうか。
注14:よく考えてみれば、なんじゃそりゃって感じしません?

1985年いっぱいでP-モデルを脱退したわけですが、脱退寸前にゲスト出演をさせてもらった有頂天(注15)なるバンドに誘われまして、加入を決意するまでに2ヶ月くらいあったのでしょうか。それまでまともにライブを観たこともなかったんで、3本だか4本だかライブを観に行きました。超満員のライブハウスで実験とパンクとニューミュージックが混ざったような音楽が演奏されており、「いいバンドだな」と加入を決めたわけですが、その音楽のインパクトと同じ強さのインパクトを彼らの置かれていたシーンやオーディエンスに感じました。

私が在籍していた頃のP-モデルは、ライブハウスを中心に活動をしており、メンバーの別 ユニットやソロなどを自主制作盤でリリースしてもいました。なのでシーンの中の1バンドとして語られることも少なくはなかったですが、実際はシーンからは孤立していた、というと言葉悪いですが、群れない性質のバンドだったので、全体のシーンを実際にまじまじと感じられる機会がほとんどありませんでした。そして私はその情報を知るために音楽雑誌を購入し、「こんなことになっているのかぁ」などと、ちょっと羨ましく思ったりしていたのです(笑)。そして有頂天はそのシーンのど真ん中で活動をしていたおかげで、雑誌を購入しなくて済むようになりましたし(笑)、興味を持っていたことを肌で感じることが出来るようになったわけでございます。今思えば、なんでそんなことに興味津々だったのか、若い自分を理解出来ません、マジに。

注15:現在「ナイロン100℃」という劇団を率いるケラがやっていたバンド。その頃誰がKERAが劇作家として岸田戯曲賞を受賞すると思っただろうか。

はり宝島の影響(注16)でしょうか、ライブハウスでは決して見かけなかった中学生や、高校生以上だとしても随分一般 的なセンスをお持ちの方々…いや、そうでもなかったかぁ(笑)…今までそこで見たことがなかった方々が跳ねるわ飛ぶわの大騒ぎ、というような光景がそこにありました。いや、単に自分が見たことがなかっただけで、ライブハウスのシーンはそのように移り変わっていっていたようです。自分がオーディエンスだった数年前はロックはマニアのものだった。それが急激に開かれたものになっていくのをそこで見たわけです。

注16:ケラ自らが主宰していた「ナゴムレコード」からもリリースをしていたが、宝島が 主宰していたキャプテンレコードからもリリースをしていた関係で、大きく取り上 げられる機会も少なくなかった。ちなみに「心の旅」というチューリップの楽曲をカヴァーしたシングルは、インディー初のオリコンチャート入りを果 たす。とは言っても190位だか、それくらいだったけど。

の頃、ラフィン・ノーズ(注17)やウィラード(注18)というバンドと3つで「インディーズ御三家」(注19)などと呼ばれてました。「御三家」なんて付けられた時点で、ロック的じゃないというか、もうほとんど芸能ノリです。そして世の中、って程広い世界の人たちとは思えませんが、割と多くの人たちがそれまであった芸能にちょっと飽きてきてたという状況があったんでしょうか、まずラフィン・ノーズが、続いて有頂天、ラストがウィラードだったかな? いや、待てよ。有頂天が「インディーズ最後の大物」(注20)とか、とんちんかんなキャッチフレーズでデビューしたんだった…きっと有頂天が最後ですね。まぁ、次々とメジャーデビューをしていったわけです。よくよく考えてみると、その時点でインディーズじゃないのにインディーズ御三家なのですから、世の中ってのはキャッチフレーズで簡単に踊っちゃうんだな(笑)。そしてその頃のウィラードが「メジャーに魂を売ったバンド、ウィラードです」などと発言した事を思い出すと、まだまだその時点ではロックはメジャーに融合しないのが美学だったんですねぇ。

この3バンドの中ではラフィン・ノーズが一番数字的な成功を収めたと思うのですが、日比谷野音での死亡事故なんて不幸な出来事で、しばらく活動を休止、残りは2バンドなので、さすがに御三家とは誰も呼ばなくなりました。

注17:なにかと派手な話題作りで注目を浴びたパンクバンド。個人的にはパンクっつーのは反抗的なスピリッツよりも、ちょっとインチキくさい話題を意図的に振りまくことだと思っている。そこがカッコいいんです、えぇ。一度解散したが、現在も活動中。
注18:一度も解散せずに現在も活動中。頭が下がります。
注19:あまりのユルいカテゴリー名を付けられて、本人達にしてみれば、笑うしかなかった。過去、現在、未来含め、あらゆる御三家の中でも最もチープな御三家。次点に「テクノポップ御三家」というのがある。
注20:その後何組の「インディーズ最後の大物」が出たのか、数え知れない。インチキ極まりない。

は「ピース」と「アイスル」(注21)という2枚のアルバムをキャニオンからリリースし、その後、脱退。2年弱という短い時期しか在籍しませんでした。脱退の理由もよく聞かれました。「音楽性の違い」とか適当に答えてましたが、まぁ、そんなのも多少ありましたし、給料が安いとか、そんなのもあったのかも知れない。でも、あれこれあった中で、最後のキッカケになった事というのが「ツアー中の夕食に出たジンギスカンが美味しくなくて、頭にきたので脱退を表明した」という事実はなかなか言う機会がなかったな(笑)。大体がバンドのせいじゃないじゃんねぇ、そんなの。

まぁ、そんなのも含めて、本当にいろんなことを体験出来ましたし、楽しかったです。 当然イヤなこともたくさんあったんだけどね!(笑)

注21:「ピース」は廉価盤が出てますし、「アイスル」も廃盤にはなっていないようです。注文すると入手出来るらしいです。よかったら聴いてみて下さい。


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